第103回 『−7℃の大群衆』

俺が行った時には、巨きなリスが何匹も可愛いらしく飛び回っていたワシントンの広場は、二百万人以上の群衆で埋め尽くされていた。
オバマ大統領の就任式の日、気温は−7℃だったのに、集まったアメリカ人は老いも若きも、誰も縮かんでなんかいない。テレビのインタビュアーがどこから来たかと尋ねると、口々にカリフォルニアとかフロリダなんて答える。この寒さだから、暖かい所から来た人を特に選んで編集しているのだろうと俺は思ったのだが、それにしても凄い。
俺なんか気温が10度を下回ると、ゴルフなんかもっての外で、本音は家から出たくない。−7℃にもなったら滝クリがデートしようと言ってきても、きっと“外じゃ嫌だ”とか“鳥インフルエンザが怖い”なんて言って、断ると思う。

そんな俺に比べてアメリカ人の熱気は、凄い!この未曾有の経済危機だというのに、全米から交通費や経費を自弁で、これだけの大群衆が−7℃のワシントンに集まったのだ。
誰も強制されて来たのではない。みんな、新しい大統領が就任する瞬間に立ち会いたい、自分もその場で同じ空気を吸いたいと、それだけの理由で吹き曝しの会場に集まったのだ。
黒人は人口の17%だと、林壮一は新著“ドキュメント・底辺のアメリカ人”で書いているが、俺がテレビで見たところでは、大群衆のほぼ40%は黒人だった。
俺は横田基地で整備兵をしていて、ベトナムで死んだウオッシュとは、サンクスギビングデイに、家で七面鳥を御馳走になる仲だったし、世界最強のフェザー級だったサンディー・サドラーとも、とても仲良くしていた。
俺は身から出た錆というか、道楽苦労だったけど、永く差別に痛め付けられた人間だから、彼等の黒人であったが故の苦しみと哀しさを知らないわけではない。
ワシントンという姓で、通称をウオッシュといった黒人兵は、“ベトコンに殺されるのは俺たち黒人で、金持ちの白人は死なない”と言っていたし、サドラーはやぶにらみの瞳を光らせて、“ボクサーは、最初がアイリッシュとイタリヤ系で、次が黒人だった。いつでも金持ちの白人が女と一緒に、殴り合いのボクシングを見るんだよ”と呻くように言った。

四十七歳の若いオバマ大統領は、アメリカン・ドリームだ。就任演説で“60年前にレストランで給仕を拒まれたかも知れない男の息子が、今こうして皆さんの前に立っている”と言った。その途端に沸き上がるどよめき。
みんな、この細身のアフリカ系アメリカ人の後ろに、“アイ・ハブ・ア・ドリーム”と叫んだ故キング牧師の姿を見ているのだ。
まだアメリカは死んではいない。アメリカ人は、絶望の中に希望の芽やタネを、なんとか見付けようとしている。
初めて就任した黒人大統領の道は、厳しくてほとんど絶望的だと、俺には見える。日本の漢字が読めない唇のヒン曲がった総理大臣は、小泉純一郎と竹中小僧がやった出鱈目の跡始末どころか解決の道筋すら示すことが出来ず、日々醜態を晒している。
オバマはアメリカを救い、地球を破滅から救ってくれると、ワシントンに集まった人たちは信じ、念じていた。

無神論者の俺には、願う仏もいなければ、祈る神もいない。
ブッシュが破壊したアメリカを再建するのはさぞ大変だろうが、やってくれないと人類が滅びる。
老い耄れて棺桶に片足を突っ込んでいる俺はいいけど、やはり世界が滅んでいくのを見たくはないんだ。
 

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