第101回 『アメリカンボーイの憂鬱』

国民学校なんて名前だった小学二年の時に、日本が戦争に負けて、俺たちは辛うじて命を取り留めた。
俺は大嘘つきだし大袈裟にモノを言う男だが、これはラテン風に言えば、“おふくろの頭に賭けて”本当のことだ。もうほんの数年、あの戦争が続いていたら、空腹で死ぬか、空襲で焼かれるか、広島や長崎の人たちと同じように原子爆弾で殺されていたのに違いない。
終戦なんて言うのは、全滅のことを玉砕と言ったり、懲役のことを受刑者と言ったりするのと同じで、役人が作った言葉にマスコミと教育者が無批判に迎合した結果、今では当たり前の日本語になってしまっている。
神様だった天皇が人間になって、俺たちがポカンとしていたら、アメリカ文化が一気に押し寄せて来た。軍歌や詰まらないNHKの“ラジオ歌謡”なんかより、アメリカンポップスの方が桁違いに楽しい。俺は七十一になった今でも、“ボタンとリボン”を聞いた時の感動を忘れない。ローズマリー・クルーニーの声は、アメリカの楽しさと豊かさの象徴だった。

アメリカ映画では、偉い人が部下に説明する。戦争映画では上官が兵に、作戦の目的と必要性を話して、最後に必ず“エニー・クエスチョン?”と訊く。帝国陸海軍では命令だけだった。
ホーム・ドラマでは一家の長の父親が、家族に家の設計図を描いて見せて、貯金が必要なことを説明し、家族に理解と協力を求める。
こんな習慣は、俺の育った頃の日本には無かったから、最初は“なんてお喋りな男たちだろう”と怪訝に思ったものだ。しかし暫く経つと、“あ、これが先生が社会科で教えた民主主義なんだな”と分かった。
「不言実行」とか「沈黙は金」なんて言っていたから、言葉による説明が肝心カナメの民主主義に負けたわけだと、幼かった俺にも分かったのだと思う。
俺が大嫌いなカマキリまで神様が作ったと聞いて、キリスト教の信者にはならなかったが、戦後入ってきた民主主義とアメリカ文化は新鮮でチャーミングで、俺はたちまち痺れてアメリカンボーイになった。

俺だけ特殊な少年だったわけではない。ほとんどみんな野球に熱中して、ジャズのリズムに乗って、浪曲や褌から遠ざかったのだ。 戦後の大混乱が治まり、食糧事情も改善されて飢えなくなった昭和三十年頃になると、アメリカ文化よりヨーロッパ文化の方が高尚だと言い出す奴が現れて、やれ実存主義だ、シャンソンだ、ローストビーフはイギリス風に紙みたいに薄く切れ、なんて言い出す手合いが増えたのだが、俺は全然ブレなかった。
エロール・ガーナーが世界一のピアニストで、両切りのキャメルを喫み、IWハーパーを呑んでニューヨークカットのサーロインステークを食べ、キャデラックに乗るのが理想だったのだ。人生で唯一、頑固にこの歳まで貫き通して来たのだ。
俺は、アメリカを愛し続けた。

今、俺は余りに愚かだったと気が付いて、茫然として、誰も居ないのを確かめてから、肩を落として座り込む。
四十年前にも、永く愛していたものの本質を悟って、同じ想いをしたことがある。読売ジャイアンツだ。三十になろうとしていた俺は、嘆きも泣きもしなかった。
友達や仲間を赤坂のバーに集めて、「読売の薄汚い体質に、俺はたった今、気が付いた。何も知らずに愛した俺はガキンチョだった。今日みんなに『俺の少年時代は終わった』と宣言する。だから、子供だった俺に金を貸した人は諦めてくれ。請求なんかしちゃいけない。女たちもお子様相手に助平なんかしたんだから慰謝料をくれなんて思うなよ」と、言ってのけたのだ。

俺は七十一になって、アメリカという国が極悪非道なワルだと知った。
何から何まで嘘ばかりのロクデナシ国家で、俺の知る限りヒットラーの兄弟分ほど悪い。
9.11同時多発テロもアルカイダではなく、自作自演だろうと俺は思う。民主主義と自由の為に命を懸けるなんて、そんな綺麗ゴトに俺は騙されていた。
今度のアメリカ発の金融危機も世界同時不況も、世界中に債権を売りつけておいて、やってのけたアメリカの計画倒産だと俺は睨んでいる。
小泉純一郎も竹中小僧も、アメリカの手下なのに誰も気が付かない。


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