第95回 『地獄のアフガン』

このホームページだけが、俺の本音を明かせる場所だ。しかし、だからと言って、読む人は俺の味方ばかりではないのだから、誤解だけは出来るだけ避けたいと思っている。
 
アフガンで殺された、日本の青年のことだ。
俺の情報源は“日刊ゲンダイ”と“週刊新潮”なのだが、この事件に関してはテレビから情報を得ている。普段はオバカテレビと呼んで軽蔑しているテレビだが、こういう突発事件だから仕方がない。
オバカテレビが報じたことだから、当然のことだが幾つも疑問がある。それを今回の「あんぽんたんな日々」は、ツラツラ書く。テレビのニュースが、いかに俺のニーズを満たしていないか、これを読んでいただけばお分かりいただけると思う。
撃ち殺された日本の青年は三十一歳で、五年前からアフガンで働いていたと言う。農民に、小麦作りを教えていたとテレビは言うのだが、俺はテレビの言うことを鵜呑みにする男ではない。
この青年が果たして、農民に耕作技術を教えるのに充分な知識を持っていたのかどうか。三十一歳で五年前は二十六歳だった。現地の言葉を最初から喋れた可能性は無いから、教えたというより、むしろ農民の手伝いをしてあげていたというのが、正確だろうと俺は思う。
物事を正確に言わず、小賢しく値打ちづけしたり、センチメンタルに拵えるのがオバカテレビの手口だ。「教えていた」とか「指導していた」と言えば、「農作業を手伝っていた」というより、格好がいいとテレビの小僧は思う。
アナウンサーの小娘は渡された原稿を、全く何も考えずにそのまま放送する。日本では過大評価されているが、もともとアナウンサーは渡された原稿を喋るだけの人で、オウムか九官鳥みたいなものだ。考えて、自分の判断や思想を語る人ではない。
だからテレビのニュースの質は、原稿を書いた奴の価値観に左右される。それを浅はかで薄っぺらい青二才がやっているのだから、テレビのニュースは、限りなく詰まらない。
もちろん耕作を指導しようが、手伝いをしようが、この青年の素晴らしさは少しも変わらない。豊かで平和な日本を離れて、荒廃した戦地で現地人を助けたのは、誰にでも出来るようなことではない。凄い心根だと思う。
青年の遺体が確認されてから今日で丸二日だが、俺は分からなくてイライラしていることが、いくつかある。銃撃された時、運転手は逃げたのに、気の毒な青年は逃げられなかった。
青年は丸腰だったらしいが、どんなに怖ろしかっただろう。同じ命を失うのでも、武器を握って闘って死ぬのと、嬲り殺されるのとではまるで違う。なぜ運転手は逃げられたのに、日本人の青年は逃げられずに命を獲られたのか。こんなことは運転手にインタビューすれば、分かることじゃないか。
“ペシャワールの会”は、どなたがスポンサーなのだろう。トヨタか?電通か?キャノンではないだろう。いずれにしても誰かスポンサーが居る筈だ。でなければこんな活動が出来るわけがない。
募金をしていると聞いたこともなければ、見たこともないから、きっと大口の後援者が居ると思うのが普通だ。捕鯨反対のなにやらいう団体もそうだが、経費を負担している者の存在を俺は知らされていない。
テレビで見ていたら“ペシャワールの会”の代表二人はいい歳をした男で、新幹線のグリーンシートに坐って、青年の御両親のところへ弔問に行った。本当に些細なことだが、俺はこんなことに拘るし、アフガンで死んだ不幸な青年と、豊かな日本で当然のようにグリーン車に納まる代表との落差に眉を顰める。
一番考え易いのは、宗教団体がスポンサーで巨額の寄付をしていることだ。そうであって欲しくない。
権力者の犠牲になる青年を見るのは、胸が傷む。気の毒でならない。戦地は物騒で当たり前だが、その戦地のアフガンで丸腰で井戸を掘ったり、畑を耕している“ペシャワールの会”のことを、俺はもうちょっと詳しく知りたいのだ。
勇敢な青年を殺させてはならない。年長者の役目は、若い者を危険な目に遭わせないことで、新幹線のグリーン車に乗って御両親のところに弔問に行くことではない。
俺は豊かで平和な日本で、飽食して七十一まで生きた。戦地のアフガンで死んだ青年が、俺は可哀相で堪らない。オバカテレビは究極の悲惨には触れず、ただセンチメンタルにこの青年の死を報じる。二度とこんな青年を死なせてはならない。

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