第92回 『旨いから食べる』

なかなか梅雨が明けずに、グズグズしている空模様だが、俺は白いズボンにアロハを着て、
あだち充さんの“二億冊売ったぞパーティー”に、出掛けて行った。

ハワイではパーティーに招かれたら、必ずレイを掛ける。
しなくてもいいか、と俺は家から出がけに女房殿に訊いたのだが、
「わたしたちが行くのはホテル・オークラで、ハワイじゃない。レイなんかしたら浮いちゃうわよ」
と、にべもしゃしゃりもない。
レイと聞いて女房殿がイメージしたのは、赤や白の花を繋げた、アルフレッド・アパカやドン・ホーがしていたものだろうが、レイにもいろいろあるんだ。俺がしたかったのは、キャンデーやチョコを、色とりどりのセロファンで包んで繋げた奴だ。
パーティー会場にもしハワイアンバンドが入っていたら、俺は“ケカリネアウ”でも唄ってあげようと思っていたのだが、レイなしだと多分音程が狂う。俺にはちゃんと、カラオケに入っている唄があって、年に何度か第一興商が歌唱印税を振り込ん来るプロの歌手だから、衣装がちゃんとしていなければ、どうしても音程が不安定になってしまう。

十五年ほど前にNHKの大ホールで、島田歌穂を前歌にアカペラで唱った時はディナージャケットだったが、あだち充さんのパーティーは、バンドがいるかどうかも聞いていないし、歌のことは頼まれていないから、俺は自分専用のマイクも持っていかない。
マイクなんか持って行ったら、いかにも“唱わせてくれ”と言わんばかりで、これはプロの歌手がやるようなことではないと、俺も勿論、承知している。だから俺は、レイもせずマイクも持たず、女房殿だけ連れてホテル・オークラへ行った。
版元の小学館は2億冊売れると、こんなパーティーを、ホテル・オークラや帝国ホテルでやってくれる。いろいろホテルはあるけど、この二軒は別格なんだ。星の数ほど女優がいても、宮浮おいと上戸彩は格と美しさが違うと言えば、だれでも分かってくれるのに違いない。

あだち充さんは人柄が善くて皆に好かれている大家だから、会場は満員で、みんな嬉しそうで楽しげな顔をしている。義理やしがらみで人が集まった会だとそうはならない。
見渡したところプロの歌手は俺だけで、バンドも入っていなかったから、俺の唄を聴きたかった奴はさぞがっかりしただろうけど、俺は唱わなくてもいいと知って、安心してスカッチを水割りでキュッキュッと呑む。
チャーミングなコンパニオンのお嬢さんが、俺のグラスが半分になると、可愛い声で「お代わり、いかがですか」と訊いてくれる。
これを断れるようなら、俺の人生は変っていた。美味しく三杯目を呑み干した時、スピーチを突然指名されて、俺は四杯目のグラスを手に持ったままステージに上がる。綺麗なコンパニオンが、グラスじゃなくて俺の顔をじっと見詰めていたから、上手いことを言ってやろうと俺は焦った。
コンパニオンに惚れられて“お持ち帰り”されたら、これは生まれて初めてのことだから、語り草になる。

スピーチは、困ったら早く止めれば拍手が多いと、俺は知っている。
タネに困っているどころか、自分のタネはジョン・F・ケネディの演説より凄いと、なぜか思い込んでいる奴ばかりなので、スピーチが長くて参るんだ。
俺は極く短いスピーチをして、ステージを降りてまた呑んだ。

手締めが済んで、女房殿と二人で「カメリア」に行って、普段より遅い晩御飯を食べる。
女房殿はビーフストロガノフを食べ、俺はラムの赤ワイン煮を食べた。
今年で丸二十年、一緒にいる女房殿が羊を食べないので、運が悪いと五年でも羊が喰えない。
久し振りに食べた羊は、とてもが六回つくほど旨かった。

羊は上手に味をつければ、豚や牛より間違いなく旨い。鶏より合鴨かアヒルの方が、ずっと旨いのと同じだ。
日本人は良識や常識が大好きなのに、なぜ羊をあまり食べないのだろう。羊という言葉を避けてジンギスカンなんて言っているのが、俺にはアホ臭くて堪らない。俺は、旨い物を食べる。身体にいい物ばかり食べていられるかって言うんだ。
「これから週に二回、ここに羊を食べに来る。食べる人が少ないと、ホテル・オークラは羊をメニューから外してしまう」とか、「身体にいいなんて、そんな物にろくなものはない。
それなのに日本人は、女も喰い物も身体にいい物ばかり好むのだ」なんて、喚きながら巨きな羊の脛肉を食べおえた俺に、女房殿は醒めた声で、「そうなさいな」と言う。
タクシーに乗る前にトイレに行っておけ、と女房殿は言った。
俺は女房殿の掌の上で、飛んだり跳ねたり唱ったりしているらしい。


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