第74回 『ラッキーナンバー』

この“あんぽんたんな日々”も、お陰さまでこれが74回目になる。
実は、「74」というのは俺の二桁のラッキーナンバーなのだ。少年の頃から、なぜかいいことには74という数字が付きまとう。
だから、この原稿を書き了えると、滝クリが俺のメールアドレスを調べて……、なんて、ほとんど夢のようなことが起きるに違いない。
74回目だから必ず、そんな魂消た誰に言っても、信じては貰えないようなことが起きる。74には俺にとって、そんな神秘の魔力が籠められているんだ。
麻布中学の受験番号が、1074番で、橋本龍太郎がひとつ前の1073番だった。
ロンドンで初めて出来た、女の部屋に行く赤い二階建てのバスは、74番で、霧の深い夜は車掌が降りて、松明を灯して先を歩くのを、運転手は目を凝らしてジリジリ付いて行く。
時間は怖ろしく掛かったけど、割増し料金なんか取られずに、ちゃんとバスは女の部屋の近くの停留所に着いたのだから、昔のイギリス人は凄かった。ナチス・ドイツに勝った連中だから、あの5ヤード先が見えない濃い霧になんか負けるもんか。
キノ・トール先生がオーナーで、ドクトル・チエコさんがチームドクター、そして佐々木信也さんが監督だった準硬式チーム“東京ライタース”でも、俺の背番号は74だった。
投げるボールが全部、トンボが止まるような変化球というジャズ歌手の笈田敏夫さんから、二塁打を打った写真が、ちゃんとアルバムに貼ってある。
こんな曲がったり沈んだりするボールばっかり投げるピッチャーを、昭和三十年代までは“ミラクル投手”なんて言ったのだが、滝クリはおろか内田有紀ちゃんに言っても、こんな日本語は、もうまるで通じない。
こういう写真を、動かぬ証拠なんて言うんだ。俺は何度もやっているから、法律とか証拠、それに裁判なんてことには、検事が慌てて裸足で逃げるほど詳しい。
友人の須藤豊が大洋ホエールスの監督をしていた二十年ほど前、ブルーの薄地のグラウンド・コートを、わざわざ作ってくれた。これにも背番号がくっきり、はっきり74と入っている。もう二十年も経ったら、“なんでも鑑定団”に持って行くつもりで、大事にコート掛けに吊してある。
この原稿を書いている仕事部屋の前に止めてあるランドローバーのディスカバリーも、八年前に買った時、好きな番号を言ってくれと言うから、「74番」と叫んだら74になった。

「兄貴。74はナシと読めるから、銭が溜まりませんぜ」なんて、余計なことを吐かした舎弟は、還暦も迎えられずに名前が変わった。
「名前を変えちまうぞ」とか、「あのバカ、名前が変わっちまった」なんていうのは、名前が本名から戒名に変わったということで、つまりこの世の人では無くなったことだ。
さぁッ、一太郎からメールの受信に代えるぞ。滝クリでなければ、誰か綺麗で素敵でスケベな女から、誘いのメールが入っているに違いない。ヨシ、髭を剃ろう。靴を磨こう。
あッ、今気が付いた。俺は間違いなく、あと四年は生きる。名前が変わるとしたら、75になった途端だ。

 

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