第49回 『「室内」に寿命が来た』

2月2日
師匠の山本夏彦は文章家で、いくつもの名言を残しているが、
「寿命があるのは人だけではない。全ての事物に寿命がある」
というのもその中のひとつだ。  
なるほど社会党も消滅したし、華族会館も既になくて、跡地には霞ヶ関ビルが聳え立っている。
俺がチンピラだった昭和三十年代には、あれだけ客が詰めかけた浪花節にも寿命が来て、今では浪曲を唸る人も聴く人もほとんどいない。  

今から二十二年前の1984年に山本さんは、全く無名で単行本も無く細々と雑誌に短篇小説を書いていた俺に、御自分が主宰する月刊誌「室内」で『府中木工場の面 々』という連載を書かせてくださった。  
これが俺の初めての連載で、その時、同時に俺は弟子にしていただいたのだ。
図々しく自分から言い出したことだから、押しかけ弟子と称している。  
さんづけで呼ばれるのを好まれた方だったから、師弟の縁があっても敢えて、山本さんと書く。  
ゴロツキの前科もんが作家になりおおしたのには、大勢の恩人がいるのだが、その筆頭は山本さんだ。どこが気に入ってくださったのか、俺を実の息子のように可愛がってくれたのだから、本当に思い出すたびに、涙が出るほど有難い。

 「室内」の見開き頁に書く、四百字詰めの原稿用紙で八枚の『府中木工場の面 々』の原稿料は、最初は四万五千円だったのを俺は覚えている。  
それが唯一の定収入だった。  
友人の車を借りて、川を渡れば埼玉県という東京の北のはずれまで行って、荷崩れで凹んだ猫缶 を安く買って猫を養い、自分はおむすびばかり食べていたのだ。  
見兼ねた子分共が、その頃一緒に住んでいた女に、塩噌を渡していたのを、俺は見ない振りをしてちゃんと見ていた。
子分が親分に届けるのをカスリ、普段いろいろ世話になっている姐さんに、親分には内緒でそっと、台所かなんかで渡すのがエンソだが、この美しい習慣にもとっくに寿命が来たようで、若いヤクザに塩噌なんて言っても 誰も分からない。  
心掛けのいい子分たちのお蔭で俺は「室内」の連載一本と、たまに入る短篇小説の原稿料だけで、初出版の『塀の中の懲りない面 々』まで喰い繋ぐ。
山 本さんがお亡くなりになった後、息子さんの伊吾さんが「室内」を引き継がれて、昨年、発刊五十周年を祝ったのだが、今日、俺は竹葉亭で鰻をいただきながら「三月号で休刊します」と聞かされた。  
「室内」にも、遂に終わりの時が来たのだ。  

半村良も弟の清野浩二も、それに樋口修吉にも寿命が来たが、俺は湿っぽくならない。  
俺は牛や豚のバラ肉を五百グラムづつ食べて、サラダを馬みたいにワリワリ食べ、酒をほどよく呑んで、あと十二年は元気に書く。  

俺がそう決めているんだ。文句あっか!


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