第44回 『シルクロード』

10月29日  
これまで旅に明け暮れた俺だが、遂にシルクロードには行けずに終わったようだ。  
六十八になって、一度もチャンスがなかったのだから、十中九分九厘、ウルムチやトルファンには行く機会はないだろう。  
若い頃あれだけ、ほとんどゲップが出るほど、パキスタンには行ったのだから、なぜあの時もうひと足伸ばして、シルクロードを訪れなかったのかと、NHKテレビを見るたびに残念でならない。  
カラチで退屈した俺は、イオノメの痛くない取りかたと、それに僅か七十円で水虫を退治する秘術を習得して、日本ではただ一人の足科の専門医になった。  
イオノメは魚の目で、専門医はウオノメなんて発音しない。  
中国では歯科医のことを牙科医と言う。  
香港で牙科と看板が出ているのは、犬歯だけ診る医者ではない。
前歯も臼歯も親知らずまで、みんな診てくれるデンティストだ。  
足科も日本には俺一人だけだが、パキスタンにはざらにいて珍しくもなんともない。  
足科も専門的に細分化されていて、女の足の付け根を診るのは、パキスターニではアソコ科と言う。  
俺はイオノメと水虫が専門の真面目な足科だ。
水虫のことを専門的にはアスリートフットと言う。
パキスタンは宗主国がイギリスだったから、俺たち医師は英語を使うのだ。  
それみろ。これで俺の言うことがまともに聞けるようになっただろう。俺は何時でも言っているように、嘘と丸髷だけはユッタことがないんだ。  
しかし、暇にまかせて足科なんてやらずに、あの時シルクロードに行っておけば良かったのにと、テレビからヨーヨーマのテーマが流れ出るたびに俺は溜息をつくのだ。  

シルクロードはほとんど砂で、風呂はどうもあまり入れないらしいから、女の人たちは大変な臭いに違いないのだが、俺は六十八歳の爺いでしかも、今は作家で医師は開店休業だから足にも付け根にも関係がない。  

シルクロードは砂と時間が創った詩だと、俺は思っている。  
こんなに美しいミイラ……と、俺は息を呑む。
他のミイラは、有明海の奇怪な魚の丸干し状態なのに、シルクロードのはテレビで見る限り、手を取って起したいほど美しいのだ。  
この辺りに住む人たちは、生きている羊を正味二十五分で餃子にすると、俺は聞いている。  
殺して皮を剥ぎ、肉を包丁で叩き、メリケン粉を捏ねて薄く伸ばして小さく分け、一つづつくるんで蒸す。  
それを二十五分でやるのだから、この人たちは凄い。
ニンニクや唐辛子、それに胡麻油なんかはちゃんと駱駝が、はるばる運んで来てくれる。  
駱駝はモノだけじゃなくイスラム教も仏教も、一歩一歩、砂を踏みしめながら、遠くから運んで来た。  
俺は信仰がなくてもなんとか生きていけるが、たいていの人間は信仰がなくては生きていけないらしい。

俺は日本でただ一人の足科の専門医だが、もしかするとヒトじゃないのか。  
ティム・バートン監督の“ビッグフィッシュ”を見て、この映画の主人公や俺は、ヒトじゃなくて魚だと分かった。
道理で幼かった頃から海や川が好きだった。本能が呼んでいたのかもしれない 。 


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