第39回 『パイナップルのネクタイ』


7月8日
 たまには会うべいと、誰ともなしに言い出して、長姉の福久子と兄の博也、それにオトンボの僕の三人で、昼飯を奥沢の入船で食べました。  
僕たちは四人兄弟です。  
他人様に、兄弟は何人かと訊かれると、「四人でしたが、姉が一人、亡くなりました」と、答えます。  
そんな訊かれてもいないことを言うのは、僕だけかと思っていたら、十年ほど前に訊く機会があってそう言ったら、福久子姉さんも博也兄貴も、必ずそう言うと言いました。  
次姉の恵子はスラリとした綺麗な人でしたが、結核で昭和二十四年に十七歳で亡くなりました。  
福久子姉さんは僕より八歳年上の七十六歳、兄貴の博也は五歳上の七十三歳で、二人とも素晴らしく元気な年寄りです。  
子供の頃は姉がチイママで、歯を磨けの外から帰って来たら手を洗えだのと、それはいちいち煩く言いました。
末の僕が言うことを聞かなかったりトボけたりすると、すぐ何でもキーキーと、母に言い付けたのです。

兄は僕が国民学校の一年生だった時に、もう六年生ですから、一緒に遊んでなんかくれません。
兄から五歳離れていた僕の少年時代は、だからかなり孤独でした。  
しかし、六十歳を過ぎると、子供の頃の歳の差はなくなって、似たような爺婆になります。  
それでも兄貴は、入船の前で立ち止まると、姉と僕に、「入る前に言っとくけど、今日の勘定は俺だ」と、言いました。 昔ながらの、須磨の安部の跡取り息子の権威を示したのです。姉と僕は極く素直に、ちょっと恐縮して見せました。

福久子姉さんのことを、兄貴も僕も子供の頃からカッパ姉さんと呼んでいます。
カッパ姉さんは兄貴のことをヒロ、僕のことはナオと呼びます。  
カッパ姉さんは恵子姉さんが亡くなって、僕たちには見えない神を見ました。
尼さんになるなどと言って、父と母を嘆かした挙句、看護婦の資格を取ってハンセン病の病院の行くと言い出して、母がほとんどパニックになったのを、記憶力が異常に発達していた末弟は忘れません。

「そんな病院へ行ったら、来た手紙も開けられない」  と、母が言ったのを、僕はハッキリ覚えています。
非科学的ですが、それが当時の常識でした。 
母にしてみれば、グレた僕が家出するのも、カッパ姉さんがハンセン病の病院に行くのも、ほとんど似たような困ったことだったのでしょう。  
母と父の説得は僕には無力でしたが、カッパ姉さんには効いたようで、目白の聖母病院に勤めた姉は暫くして、外科のお医者と結婚しました。  
聖母病院の看護婦さんは、その当時はみんなカソリックの信者でお月給はいただけません。  
だから、カッパ姉さんは毎月、母から小遣いをもらっていたのです。  
それを見た僕は、静脈注射が打てる資格があっても、信者の看護婦さんは部屋住みのヤクザと同じだなと思いました。
宗教でもヤクザでも、信じたり惚れたりすれば、シメタとばかりにタダ働きさせられるのです。  
カッパ姉さんの結婚式は、霞町の教会で行われましたが、その時の写真がちゃんと残っています。  
チンピラだった僕は、父が無地の銀色か白のネクタイをしてこいと言ったのに、淡い紫の地に白いパイナップルが鮮やかに描かれている、ド派手なネクタイを締めていました。
父への精一杯の反抗だったのでしょう。  

入船で兄貴と僕はビールを呑み、カッパ姉さんはあがりをいただきながら、とても結構なお寿司を食べました。  
カッパ姉さんは、三男坊の貞三の結婚写真を兄貴と僕に見せて、「二度目よ」なんてちょっと首をすくめて言ったのです。
二度目だと首をちょっとすくめるのが、弟の僕には慣れない、世間様の常識なのでしょう。  
しかし、三人の爺婆は、間違いなく幸せでした。
つくづく有難いことだと思います。 


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