第36回 『俺が聞いている音』


5月5日  
今年の連休は外に出ない。  
表に出ると不愉快なことばかりで、楽しいことや微笑ましいことは、まず滅多に無いと知っているから、つい俺は引き籠りがちになる。  
暮らしを立てているのが文章を書くことだから、強いて外に出なくてもいいのだ。  
肩からぶら提げたズタ袋を、他人に打ち当てても詫びないどころか、振り向きさえもしない若い衆に、道行く者は我ひとりとばかりに険悪な表情で自転車を漕ぐ娘と、元娘。  
隠居する前は、看守か刑事に違いない爺いの、微笑みの用意が全く無くて、卑怯な心だけがむき出しになった、目を背けたくなる顔。  
日本はいつの間にか、法律違反でなければ、何をしても、どんな態度でも文句を言うな……という、優しさが欠落した法治国になってしまった。  
俺が今住んでいるのは、東京でも柄のいい人が多いと言われる杉並だ。  
俺は物心がついてから初めて、こんな柄のいいところに住んでいる。
そこでこうなんだから、元ゴロツキの爺いは、仕事部屋に籠もっているのが一番いいんだ。  
老いさらばえた俺は、他人様に接することが苦痛になってしまったらしい。  
これじゃ金も儲けられないし、若い女に惚れられるなんて、つい十年前にはしょっちゅうあって困ったことも、もう起こる可能性がないんだ。  
作家と女優と、それに政治屋と役人は嘘つきだけど、俺は漫画原作者だから本当のことしか言わない。  
家に籠もっていても、尼崎では電車が飛び込み、静岡ではヘリコプターが落ちて来るんだから、この法治国は皆が信じているほど安全じゃない。  
俺は三十秒あれば覚悟が決められるから、仕事部屋に籠もってCDかテープをかけて、俺の好きな音を聞き、ヤングサンデーで連載している「RAINBOW 二舎六房の七人」のプロットを、あれこれ考えている。  
アンソニー・パーキンスの“月影のなぎさ”が終わって、デビー・レイノルズが“タミー”を唄い出す。  
この“タミー”は、日本航空の一期のスチュワデスだった川本多美江さんのテーマだった。  
素晴らしく綺麗な方だったけど、もう四十年もお目にかかっていない。  
俺の知る限り、ミシュリーヌ・プレールよりキャンディス・バーゲンより、マレーネ・デートリッヒより川本多美江さんは、ずっと素敵で美しかった。  
嘘じゃない。ホントだ。

見なきゃ分かんないし、見て分からんもんは、聞いても分からんという上方の格言もある。
 


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