第27回 『三別抄終焉の地、済洲島』


12月19日
八日からずっと、俺は忘年会ばっかりやっている。
これも原稿依頼や連載が減ったからで、これまでの年の暮れは、印刷所や編集部が正月休みになるから、年末進行と言う奴で追い捲られて、ろくに忘年会なんか参加したことがなかった。
社長と俺だけの、ワン・ステップ社のささやかな忘年会は、一番先に済洲島で済ましている。
済洲島はガイドの康さんに恵まれたこともあって、とても楽しかった。

朝鮮半島の最南端にあるこの島は、美しくてしかも壮絶な歴史を秘めている。
元に侵略された時の反抗勢力、三別抄(サムビヨルチョ)が滅亡した城址には日本人の観光客は滅多に来ないと、案内してくれた康さんは言う。
展示してある偉い人の色紙の中に、中曽根康弘のが目立った。
流石は大勲位だと、妙なところで俺は感心する。
武部幹事長やノウノ法務大臣は勿論、小泉純一郎も、まず此処を訪れることはないだろう。
鎌倉幕府も朝廷も、三別抄の存在を全く知らなかったのだ。
京城を追われた三別抄は、天童よしみのヒットソングで知られる珍島に籠もって闘い、更に済洲島まで落ち延びて遂に滅亡するのだが、これで元の日本侵攻は五年も遅れたと歴史学者は言っている。
そして三別抄の残党が行った、高麗の船大工たちの怠業、手抜き工事で、元軍の唐船は博多湾で台風に遭うとひとたまりも無く沈んでしまったのだ。
俺のルーツは福岡県宗像郡玄海町だ。弘安の役でもし元軍が勝っていたら、俺はきっと生まれていない。
生まれていても、今みたいな色男爺いじゃなくて、もっとずっと朝青龍に似たモンゴリアン面 になっていただろう。

これから済洲島に旅する方には、康さんを積極的にお薦めする。
在日二世で完璧な日本語を喋る博識な中年男で、とても人柄がいい。
社長と俺はシーラホテルに泊まったのだが、海岸沿いに、ハイアット、ロッテ、シーラとホテルが隣接している。
ロッテはヨン様の写真やポスターだらけで、レストランの入り口に、イケメン定食とナイスバディー定食のビラが貼ってあったのに、俺は仰天した。
多分、ナイスバディー定食は、ドぶっといフランクフルトソーセージで、日本のオバさんたちは目を細めて、舐めたり噛み千切ったりするのだろう。
日本のノウノ様にクリソなオバさんたちは、 蒙古のフビライ・ハーンより、北朝鮮の金正日よりずっとグロテスクなのだ。
ロッテはこんなことを、ジョークじゃなくてマジにやっているんだから、客だねに想像がつく。
三軒並んだホテルは、客だねに微妙な違いがあるのだろうが、いずれも飯が東京のホテル並みに高い。

カバか日本猿みたいなオバさんたちを相手では、スケコマシで稼ぎも出来ないから、昔取った杵柄で俺はひと稼ぎしようと、カジノのバカラのテーブルに坐った。
此処のカジノは、なぜか土地っ子の韓国人は遊ばしてもらえないのだ。
バカラは簡単に言えば西洋オイチョカブで、客はプレイヤーかバンカーのどちらかにチップを張る。
他の客は皆、貰った記録用のカードに、どちらが出たかいちいち書くのだが、俺は次がコモクのヌケと出るか、ツラだか勘を付けるだけだから、メモクは付けない。
コモクとかヌケというのは、次が逆の目になることで、ツラは同じ目が出ることだ。
喧嘩とバクチはツラを張れ、なんて言葉も丁半バクチ全盛の頃のセオリーだった。
三十分ほど細かく張って、百五十万ウオンほど儲けたところで、突然、中年の日本人のオッサンが近づくと、紙切れとペンを出してサインをくれと言う。
俺はヌケに三十万ウオン張り付けたところだったのだが、もしかするとこの垢抜けないオッサンも、読者かもしれないと思うから仕方なくサインする。
そうしたら続けて、そのホテルの社員だと名刺を出した男まで、言葉は丁寧だったが紙切れを突き付けたのだ。
こんな、いくら細かくたって勝負の最中に、客にサインさせるカジノなんてあるもんか。
「よし、この細かいバカラで一千万ウオン勝つ!」と、漲っていた気合に水を差されて、その途端にツキが去ってしまう。
ホテルの名前は敢えて書かないが、済洲島のカジノは最低最悪だった。
これまでにいろいろ耳当たりのいい、本当ではないことを、言い捲くり書き散らした俺だが、なぜバクチ打ちの足を洗ったかと言えば、 それは、集中力が持続出来なくなったからだ。
一度去ったツキが再び戻って来るまで、とてもブチ続ける根気はない。

免税店で何も土産は買わずに、俺は直行便で成田に帰った。


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