第23回 『変えた。俺は考えを変えた』


10月22日 日曜日
ホームページでやる連載小説の第一回目を書き終えたのだが、善福寺川公園の池を見てる内に、俺は考えを変えたのだ。
十月中に、俺は新たに第一回目を書く。まるで違う話を書く。
編集者と読者に媚びずに、書きたい小説を書こうと、このホームページを創ったことを、鴨とアヒルを見詰めている間に改めて、俺は思い出した。
本当に今一番、書きたい小説を俺は書く。
仮題を「時速百二十キロ、ローマへ」と、付けた。
作家は老いると、三つのものにのめり込むと言う。 歴史と宗教、それにポルノだそうだが、俺はどうやら歴史らしい。

戦争中、熱海に疎開していた俺は、出征した父の残した本箱にあった本を、片っ端から全部読んだ。
シェークスピア全集も漱石全集も、それに世界文学全集からプルーターク英雄伝や名将言行録まで、暇に任せて小学校の低学年だった俺は、みんな読んだ。
そして、その夥しい本の中に、昭和六(1931)年に羽田から朝鮮半島・シベリヤ経由でローマまで飛んだ記録があったことを、タイトルも著者も忘れたけど、俺はほぼ六十年近く覚えていた。
他人様から拝借した金を忘れるから、評判が悪い俺だが、こんなことだけは何時までも覚えている。
新井信さんは文藝春秋の常務か副社長だった偉い人だが、リタイアすることになってホテルでパーティーがあって、俺は出かけて行った。
普段はこの手の会には行かないのだが、新井信さんは初出版の「塀の中の懲りない面 々」の編集者だし、文藝春秋と御縁が切れても個人的にとても仲良くしているから、ネクタイをひっちばって俺は出かけて行く。
深田祐介先生にお目にかかって、俺が、もしや昭和初年頃、羽田からローマまで飛んだ法政大学の単発複葉機のことを御存知か、と伺ったのは、先生が飛行機には造詣が深いと知っていたからだ。
「ああ、昭和六年の青年日本号ね。その本は大日本雄弁会が出した《征空一万三千キロ》で、その頃の法政大学航空部の部長は、なんと内田百間ですよ」と、打てば響くように教えてくださったので、新井信さんのパーティーは俺にとってとても有意義だった。
俺はすぐ新橋の航空図書館に行って、「征空一万三千キロ」を読む。
当時の教官だったパイロットが書いた実録だが、六十年ぶりで読んだ俺は、ほとんど痺れた。
俺がホームページで連載する小説は、時速百二十キロで、はるばるローマまで飛ぶ間に、パイロットがいろいろ想うことが中心になる。
ポロポロ飛んで行く青年日本号の下界では、ロシヤでは共産革命が成り、ヨーロッパでヒットラーとムッソリーニが台頭している。
そして青年日本号には、無線もラジオも付いていないのだ。 俺は久し振りに興奮している。


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