第18回 『長生きさせてくださる方たち』


7月26日
俺はそそっかしくてその上、人間離れしたものぐさなのだ。
これは慎重でマメな男より間違いなく、身体に悪い。健康によくない。
煙草はやめないし酒もガブガブ呑むから、下げろと言われている体重も八十九キロから下がらない。
入れば気持ちのいいのは分かっているのだが、立ち上がって風呂場に行き、着ている物を全部脱いで、オシモを洗ってバスタブに入るプロセスを想うと、面 倒臭くて堪らなくなる。
だから冬は特に、女房殿が不機嫌になるまで風呂には入らない。
他人が呆れるから、今まで自分がこんなものぐさだということは、喋らなかったし書きもしなかった。
もう六十七歳だから誰に呆れられても、どうということはない。

三十年も前の府中刑務所の独居房に、閉じ込められていた時のことだ。
禁制品を隠し持っていないか、時々看守は抜き打ちで捜検をやる。
人が閉じ込められている舎房を、断りなしで徹底的に引っくり返すのだ。
ハテナという綽名の首が斜めに捩れたゴリラのような看守が、洗面台に置いてあった俺の歯磨きのチューブを摘まむと、貼ってあった所持許可の小さい紙を見て、険悪な面 を歪めて、
「どういうことだ。これは……」
何か不正が行われていると、言ったのではなく、吠えた。
所持許可の日付が、十一ヶ月前だったから毎日二回、歯を磨くゴリラは、チューブの中に何か隠してあると思ったらしい。
普通、人間も猿みたいな看守も、中型の歯磨きチューブはほぼ一月で遣い尽くすらしいと、ゴリラに不審を顕わにされて俺は初めて分かった。
臭くならずに清潔を保つのには、せいぜい十日に一回、念入りに磨けばいいと俺は信じている。
懲役ではニンニクなんか喰わせないから、それで誰にも迷惑はかけない。
歯なんて、そんなに一日、二回も三回も使命感に燃えて磨きたてなくてもいいと、俺は子供の頃から決めている。
川崎の綺麗なかかりつけの歯医者さんに、待合室の壁に掛ける色紙を書けと言われて、
「象さん、鰐さん、歯は磨かない」と、書いたら、怒って出入り禁止にされたのは、今から十八年前だった。
商売柄、怒るのは当たり前かもしれないが、しかし、誰がどんなに怒ろうがライオンもリスも、歯なんか磨かずに生きているんだ。

そんな具合にこの歳まで生きた俺だから、歳相応に方々くたびれているので、長生きするのには助っ人がいる。
日本医科大学の大庭先生には、月に一回、定期検査をお願いしているのだが、とても親切で朗らかな方だ。
「我慢したオナラは何処に行ってしまうんでしょう?血に溶けて肝臓で濾過されても、あの臭いまで消えるものでしょうか?」なんて、かなり無知で初歩的なことを俺が呟いても、呆れずに答えてくださる。
看護婦の美しい松田さんは、流石に老人科のベテランだ。我が侭な爺婆に、何時でも嫌な顔ひとつしないで 、実の娘でも出来ないほど親切でにこやかにしてくださる。
休日はSMAPの追っかけだと噂される、チャーミングな河野看護婦は、俺が知る世界一の静脈注射の名人だ。
オリンピックに「静脈注射」なんて種目があったら、河野さんは四年にひとつ金メダルを獲るに決まっている。
そして年に一回、俺の心臓を診てくださるのが、前回書いた維田先生だ。
他にも歯科医の平井先生は俺に時々、歯ブラシを下さって、もっと綺麗に磨けと叱咤激励してくださる。
先年この先生は俺の十四本の上の歯を、そっくり新しくしてくださったから、スルメでもせんべいでもバリバリ喰べられるようになったのだ。
六十七歳の爺いだから、俺はゴルフや仕事をやり過ぎると、身体がまるで鰐かアルマジロにでもなったようにボキボキになって、借金は減ったのに首が回らなくなる。
そんな時に助けてくださるのが、鍼灸師の相馬先生だ。
この先生に鍼を打っていただくと俺は、たちまち生まれたばかりの赤ん坊みたいに、溌剌となる。
腕が良くてしかも、とても親切な方々に巡り会えたのは、俺にとって、作家になりおおしたのと同じほどの大幸運だった。
この方たちがお出でにならなかったら、俺はとっくにくたばっている。


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